ダイダラボッチ(16枚)

 ダイダラボッチは歩いていた。自分がどこから来てどこへ行こうしていたのか既に彼には判らなくなっている。でも自然と足が前へ向いた。
 あたりは見渡す限りの草原で、間もなく夜が明けようとしている。地平線から陽光が差し、草原を赤く染める。前へ動かす足は朝露に濡れ、草をカサコソ鳴らした。虫が驚いて飛び立ち、冷たい風が肌を差す。やがて太陽は高く昇り、彼にささやかな温もりをもたらした。
 肌は全面苔に覆われ、背丈は2メートルあろうか、歩く肩に小鳥が止まり、蝶が草の髪の周りを飛ぶ。もう思い出せないくらい長い間、仲間たちに会っていない。旅に立ったのはいつだったろうか。何の前触れもなく或る日東へ向かって歩き始めた。仲間たちにさよならも言わなかった。その衝動はとても静かだけど力強かった。朝日が東の空に顔を覗かせていた。ああ、何かが俺を呼んでいる、彼は思った。思う先から足が動いていた。
 太陽が頭の上へ差し掛かる頃、草原の向こうに一群の森を認める。彼は森へ入って行く。頭上の木々に陽光が揺れ、風が梢を鳴らす。足裏の土は湿っていて、それは彼にとても心地よく触れてきた。森の奥へ奥へと足を運ぶ。虫たちが彼の髪の周りを飛び、栗鼠が驚いて草葉に隠れる。上からは様々な形に切り取られた光が目に飛び込んできた。それを遮るでもなく黙々と歩を進める。
 向こうから何が来る。彼は久しぶりに歩を止めた。木々の影から何か大きな者が近づいてくる。静かにそれを待った。警戒するでもなく何かの予感で静かにそれを待つ。草葉の陰から現れたのは、彼の仲間だった。彼と同様全身苔で覆われ、旺盛な草の髪が微かな風に揺れる。二人は見つめ合った。それは数秒にも数分にも感じられる。やがて二人は徐に互いに向かって歩を近づけると、相対するところまで来て向き合った。お互いの顔を見つめ合う。そうしてほぼ同時に二人は右手を伸ばし、相手の苔むした胸に手を当てた。掌に鼓動を感じる。今では二人は目を瞑って顔を前に傾けていた。互いの鼓動のリズムがシンクロしていることを確かめる。そして、またも同時に互いの手を離し、再び顔を見つめた。一頻り見つめ合った後、挨拶もなしにすれ違い、それぞれの方向へ歩みを始める。頷きも思わせぶりな目配せもなく。
 寒波がやってきた。息が白くなる。彼は黙々と前進する。いつか森は尽き、一面砂っぽい荒野だ。寒風が吹き付け体温を下げた。姿勢は変わらない。黙々と同じ歩調で進んでいく。遥か上空を鷹が飛び、真昼の月が淡く彼を見下ろす。彼の歩が小さな砂煙をあげ、砂が風で飛ばされた。眼球に纏わりつく埃に構わず瞬き一つしない。荒野は地の果てまで続いている。彼は歩みを止めようとしない。自分の胸に語りかけてくる呼び声に応えて前へ進む。
 ふと彼は遠くに点のようなものを認める。仲間だ。二人か三人。北のほうへ向かって去ってゆく。再び歩を止める。ジッと地平線の仲間を眺めた。いつまでもいつまでも見つめている。やがて三つか二つの点は一つになり、霞み、やがて消えた。でも彼はまだその方向を眺めている。見渡す限り荒野が広がっていた。やがて何かを思い定めたように再び東に顔を向け歩き出す。背後が夕焼けているが、彼は振り返らない。後ろに金星が輝きだし、まるでそれを潮にしたように方々で星が輝き出した。いつの間にか彼は宇宙の中心にいる。天の川が天空を横切り、向かう先にはオリオン座が、右方には北斗七星が輝いた。大地は暗がりに沈み、天球のほうが賑やかだ。でも彼は変わることなく暗い大地をしっかりと踏みつけ、空を眺め渡すこともなく東へ進む。満天の星辰は自転をつづけ、進路を幻惑するが、歩みに迷いはない。髪や苔には夜露が降り、ますます体温を奪った。彼は眠らない。決して眠くない訳ではない。それはしつこい鈍痛のように胸の奥で疼く。でもただ疼いているだけだ。横になるほどではない。そのようにして何日も過ごしてきたのだし、これからもそのようにして歩み続けるつもりだ。
 東天が白みだす。やがてまるで誰かの情念のように赤く焼けだす。いつものように朝が明ける。
 朝日に浮かび上がるものがある。赤球の後ろに恐ろしく背の高い風車が回っていた。高くて細長い。それが燃える赤を背景にクルクル回っていた。風車に向かって真っすぐ歩いてゆく。次第に太陽が昇ってきて風車の羽を影にした。微かにヒュンヒュンという音が辺りに響いている。段々この塔の基底に近づいてゆく。それは古いレンガで出来た巨大な樹木のような幹だった。それが遥か上空に向かって伸びている。見上げても光線で羽がよく見えなかった。ただヒュンヒュンという音だけが降って来る。レンガに手を触れた。乾いた日干しレンガだ。掌で撫で側頭をつけて耳を澄ませる。中から駆動音が聞こえてきた。なんのための駆動なのか見当もつかない。とくに考えもしない。ただ耳を澄ませる。顔を離しもう一度レンガを撫でる。一頻り撫でたあと塔を後にした。振り返りもしない。背後からヒュンヒュンという音だけが追いかけてきた。
 荒野を細い紐状のものがぬたくって近づいてくる。それは長い長いヘビだ。足元まで来ると思ったより太いものだった。ヘビは彼の脚に絡みついてくる。右脚に巻きつきそのまま胴体に這いあがって来た。その太く長いヘビは彼の身体をグルグル巻きにする。歩が止まった。掌でそのヌルヌルした鱗を撫でる。ヘビは全身で彼の身体を撫でまわした。彼の掌もそれに応える。一頻りの交歓の後、ヘビは何かを達観しように彼の身体から離れていった。頭から地上に降り、そのまま背後へ去って行く。身体に残ったヘビの跡を確かめた。苔にヘビが這った跡が残っている。全身を一通り眺め渡すと、また前へ歩み出す。背後からヒュンヒュンという音がまだ聞こえていた。
 胸の疼きが僅かに大きくなっていることに気が付く。それは気にしなければ気にならない程度だけど、確かに大きくなっている。解っていた。このまま永遠に歩き続けることはできないのだと。残された時間は無限ではないのだと。自身の行きつく先のことをおぼろげながら想像してみる。それはまだ漠として形をなさない。しかし予感があった。考え方に拠ればそれは予感でしかない。でも確かに感じる。彼はそれに呼ばれて歩き始めたのだ。
 彼方に城市が見える。それはまるで蜃気楼のように揺らめいていた。城門から車馬の隊列が行き来している。彼は真っすぐ西門に向かって吸い込まれていった。
 城市は門から始まる市が街路の両側を埋め尽くしている。雑踏で賑わい、人々の叫声が飛び交う。行き交う人に彼に目を留める者はいない。彼らはダイダラボッチなら見慣れていた。彼らとダイダラボッチが棲む世界が違うことも知っている。ときどきダイダラボッチの後を着いていく子どもたちがいるが、すぐ飽きてどこかへ行ってしまった。道路の中央を歩く彼を後ろから馬車の御者が罵声を浴びせるが、車道の端に寄ってそれをやり過ごす。やがて町の中心の広場にやってきた。広場の真ん中には泉が湧き立ち、泉の中ほどには翼が生えた女神像がそびえている。像を見上げ、泉の水を手で掬って喉を潤す。泉の囲いのレンガに腰掛けた。
 辺りは平日の公園のいつもの風景が展開している。子どもを遊ばせて歓談している母親。鳥に餌をやっている老人。ベンチでうつらうつらしている老婦人。一人でベンチを占領して熟睡するホームレス。
 一人の少女が近づいてきた。「あー、あー」と発声して、小さな花を差し出す。言葉を身に着けるには齢が足りないのか、それとも聾なのか、ひたすら「あー、あー」を繰り返し青い花を差し出す。少女から花を受け取った。少女は彼の苔だらけの膝に恐る恐る触る。感触を確かめ一頻り撫でた後、彼の膝に頭を載せた。「あー、あー」……。
「あら、あら、ちーちゃん、ダイダラボッチさんにご迷惑でしょ?」。母親だろうか、慌てて近づいてきた女性が少女を抱き上げる。少女はなおも「あー、あー」を繰り返す。婦人はそそくさとその場から去っていった。彼の手に小さな青い花が残される。
 太陽が南中した。公園の人々は弁当を広げたり、帰路についたり、昼休みの勤め人の男女が繰り出してきたりと動きを見せる。ダイダラボッチはスッと立ち上がって、東門へ向かって歩き出した。気を留める者はいない。聾の少女の姿もいつの間にか見当たらなくなっていた。
 城市の東門への通りは、概ね西門の通りと同じような光景が展開しているが、市場は昼休みの弛緩を貪っている。商いは小休止といったところだ。幾分鎮まった通りをゆっくりと歩く。そのとき何かが彼の腰に当たった。生卵だった。割れた白身と黄身が腰を汚す。市場の人々はそんな彼の変化に目も留めない。彼自身も何もなかったように前へ進んだ。右手には聾の少女がくれた花を摘まんでいる。
 東門から再び荒野に足を踏み入れる。
 今日は日和がよい。インディアン・サマーだ。胸の疼きが遠のく。このまま小春日和がつづいてくれればいいと思った。でも彼は知っている。こんなことがつづく筈がないのだと。これは一時の休養なのだと。
 南へ飛び遅れた小鳥が纏わりつく。胸の鼓動は力強い。いつしか再び茶色かかった草原に足を踏み入れ、心地よい感触を足に伝えた。彼は思う。ああ、このままいつまでも旅が続けられたななら。
 野草の生い茂った平原に、小さな数多な構造物が見えてきた。次第にその構造物に近づいてく。それはこの人気のない平原に唐突に現れた墓地だった。彼はそれらの墓石群の中に入っていく。いずれも古びていて年代を感じさせた。墓碑銘はない。ただ、無表情な花崗岩が等間隔に並んでいた。気のせいか、草原を渡る風も止み、静寂が辺りを被う。彼はこれらの間を縫うようにして歩く。一基だけ花が手向けられた墓を見つけた。歩が弱まる。視線がその墓石に吸い込まれる。その比較的新しい墓石の前にしゃがんだ。そして聾の少女がくれた青い花をその墓に手向ける。立ち上がり、また前へ歩き出した。墓石群が尽き、それらは背後へと過ぎ去る。彼は思う。
 あれはダイダラボッチたちの墓。彼と同じように東の空に呼ばれて歩き始め、力尽きた仲間たち。背後から百の目が彼を窺っていた。彼らが彼に語りかけている。でも彼は振り返らない。しつこく残る胸の疼きに語りかけるように彼らに語り返す。言葉にならない言葉で。形をなさない思いで。
 唐突な砂嵐が彼を包む。何の前触れもなく先ほどの小春日和が嘘のように。いつの間にか草原は尽き、丘陵を成さない砂漠に踏み入れていた。千の砂粒が彼を容赦なく苛む。姿勢も心なしか前のめりになった。嵐はいつまで経っても止む気配がない。まるでこれまでもずっと嵐の中を歩いてきたのだし、これからも(彼が倒れた後も)永遠に嵐が続いているような気がしてくる。
 ダイダラボッチたちの人生は間断なく吹き荒れる砂嵐だ。みなそこからやって来て、そこで倒れた。たまさかの晴れ間でこの世の業をなし、小さな痕跡をこの地に残す。あとはひたすら砂嵐が吹き荒れている。そこでは嵐を避けるような構造物を造っている暇などなかった。その間、千の万の砂が彼らの生を叩き、ひたすらそれに耐えた。
 嵐が始まったときと同じような唐突さでそれは止み、足の速い雲が西に去っていく。その合間から青空が覗いた。砂の痛覚の記憶を胸に、歩を刻む。胸の疼きの勢力が増していた。急がなくては。でも何処へ向かって急がなくてはならないのか判らない。とにかく何かが呼んでいた。それはそこにたどり着かなければ判然としない。芯に堪えることだけどとにかくそうなのだ。
 小さな丘陵に入っていく。高木灌木が生い茂り、谷は意外に深く、旺盛な野草の合間にケモノみちが続いていた。草をかき分け前に進む。鼓動が高鳴り、疼きが訴えかけてくる。丘陵の頂あたりの少し拓けた場所に出る。胸の中で聾の少女の「あー、あー」という声が響いた。そしてそれはいつしか彼自身の心の声になっている。
 あー、あー。
 そこにしゃがみ込み、身を横たえ、頬を地につけた。ほんの数歩先には少女に貰ったような青い野草の花が咲いている。頬の感触を味わう。鼓動が次第に鎮まっていくのが判った。それと反比例するように疼きがジンジン増す。目を閉じ耳を澄ます。あー、あー、ここが私が求めていた場所、あー、あー、ここが私を呼んでいた場所。疼きは白い眠りとなって彼を包んだ。

腕(63枚)―執筆中―

 その年、人の腕を6本折った。
 何も武勇伝をひけらかそうというというわけじゃない。この話にはちっとも武勇的な要素はない、ひとかけらも。
 1年間休学して日本中をバイクで1周する旅に出た。軍資金はわずかであり、金が底を尽きかけると一つの町に留まりバイトを見つけた。皿洗い、ガソリンスタンドのスタッフ、魚市場の荷役、警備員、何でもやった。
 主に肉体労働系の仕事が多かったわけだけど、別に体力に自信があるとか、腕に覚えがあるとかそんなんではぜんぜんない。どちらかというとヒョロリとしているし、背は高いけれど線は細いほうだし、タフとはおよそほど遠い。肉体労働が多かったのは、ただ単に、学生証だけが頼りのどこの馬の骨とも判らない若造を雇ってくれるような仕事は、そういうものしかなかっただけの話だ。
 だからその年、半ダースもの片腕をへし折ったなんて話をしてもまず、殆どの人が信じてくれない。今から話すことは話半分で聞いてもらって構わない。
 最初は春の岩手県のことだった。4月に東京をたった僕は、桜前線を追い抜いたところで、早くも無謀な計画が破綻しかけてた。もともと実家からの仕送りも潤沢なものではなかったし、せっかく溜めたバイト代もカワサキの250ccで粗方吹き飛んでいた。僕は手頃なガソリンスタンドにバイクを入れ、スタッフに雑談傍ら求職を申し入れ、事務所に通されると、ほとんどその場で採用された。何と言ってもW大の学生証がものを言った。苦労して受験勉強した甲斐があったというものだ。
 その岩手県のI市であっさりと桜前線に追い越され、夜は鍵を締め切ったスタンドに泊まらせてもらった。オーナーがよっぽどお人よしなのか、若い頃の僕が人畜無害に見えたのか、よく判らない。何せその辺を見極めるには留まった期間が短すぎた。
 或る日仲間のスタッフと仲よくなり、近所の居酒屋に皆で飲みに行った。
 そこでなんで、腕を折る折らないなんて話になかったか、今もってその経緯が判然としない。なんせ酔いに酔っぱらっていたし、気が付いたら一つ歳下のY君の前腕に手をかけ、それを思いっきり自分の膝小僧に叩き付けようとしていた。
 決して険悪な雰囲気とかそんなんじゃなかったと思う。Y君もしたたかに酔っていてそのヘラヘラ顔をよく覚えている。
 僕もヘラヘラ笑っていたけれど、瞬間、両腕に掴んだY君の前腕に力を込めて、フンッと一気に自分の膝に振り下ろした。
 パキッといういっそ気持ちのいいくらいの音がした。テーブルを囲んでいる皆がたちまちシーンとなる。Y君の顔が真っ赤になり、腕を抱えて何かに耐えるように黙り込んだ。
「折れたんじゃね?」
「おいY、大丈夫か?」
「救急車呼んでくる」と言ったのは僕だった。その頃携帯電話なんてなかったから、席を立ち急ぎカウンターのほうへ駆けて行った。
 そのときとった行動が自分でも上手く説明できない。そもそも悪気なんてなかったんだし、酔って悪ふざけの果ての事故で済む筈だ。でもそれは皆、後から振り返って思ったことで、現実に取った行動は誰もが思いも拠らないことだった。
 そのままカウンターを素通りし、自動ドアももどかしく初夏の宵に躍りだす。酔いは一気に醒めていて、夜の街を走った。そのまま働いていたガソリンスタンドに辿り着いたと思うと、タンクを満タンにし、I市を走り去った。
 夜の郊外を疾走しながら、Y君の腕が折れる「パキッ」っていう気持ちのいい(それは文字通り気持ちいいほど辺りに響きわたった)音が何度もフラッシュバックし、朝が明けても休憩も取らず、そのままなだれ込むように青函連絡船に乗った。そこで腹にサンドイッチを詰め込み、ベンチで束の間の爆睡をし、ほぼ半日で函館まで辿り着いた。
 自動販売機でタバコを買い、吸い慣れない紫煙に噎せた。
 波止場で汀を見つめながら、自分の中の小暗い、でも不思議に落ち着き払った渦のようなものを思った。タバコなんて生まれてこの方一度も吸ったことがないのに、何故だろう、とても旨かった。

 函館から噴火湾に出て、海沿いを室蘭、苫小牧を経て南下し襟裳を回って帯広に出た。東北海道にも春がやってきていた。
 軍資金の尽きた僕はドライブインで募集していた牧場の雑用係のバイトにありついた。そこは、若夫婦と高校生、中学生、小学5年生の三姉妹と、お祖父さんの6人が、何ヘクタールもの農場で畜産をやっていた。牛乳を毎日出荷し、牛に飼料を与え、農場に放し、夕には畜舎に追い集める。
 早朝、牛たちに飼料を与え、上の娘が絞った牛乳の出荷を手伝い、牛が畜舎にいない間は掃除をし、畜舎に帰って来た牛の体を洗い一日を終える。夜は夏に貸しコテージにもなる小屋を使わしてもらい、至れり尽くせりだ。一日を終えるとクタクタになり、ベッドで泥のように眠った。
 北海道には梅雨がない。いちばん気持ちがいい季節で、昂ぶった心を癒してくれた。重労働は次第に身体を鍛えてくれて、本格的な夏が来る頃には、仕事の後、散歩する余裕もできた。
 たまに暇なとき、下の二人の娘は僕にじゃれついてきた。有り余った体力で二人のバレーボールやバドミントン、乗馬などに付き合い、上の娘はそんな僕たちを遠くから眺めていた。
 或る日、宵の牧場を散歩していると、地平線から馬に乗った誰かが駆けてきた。佇んで馬を待ち、やがて馬上の人は丘を一気に下って側までやって来た。上の娘だ。
「散歩ぉ?」
「うん、乗馬が上手いんだね」
「こんなところに生まれちゃ、嫌でも上手くなるよ」
 考えてみれば、彼女とまともに話すのは初めてかもな、とふと思う。
「あなたも乗らない?」
「遠慮しとくよ」
「意気地なし!」
 そう彼女は言い放つと、勢いよく馬の首を取って返し、畜舎のほうに走り去った。

 北海道に短い夏がやって来る。トウモロコシの出荷が最盛期を迎え、肉牛たちも何頭か出荷される。右も左も判らないまま、ただ親父さんに命じられるままに、身体に鞭打って働いた。上の娘の玉も汗を流しながら走り回る。絞りたての牛乳は旨く、疲れを癒した。バイトも更に何人か加わり、コテージも賑やかになってきた。
 いつものように宵の散歩をしていると、畜舎に灯りが点いている。覗くと上の娘が馬を洗っている。
「よっ!」
「よう!」
「熱心だね」
「明日、こいつ売られるんだ」
「そっか、君こいつ可愛がってたもんな」
「これが商売だからね」
「でも別れがたい?」
「うん」。そして幾分上気した頬で顧みると、
「最後に乗ってみる?」
「乗れるかな」
「教えてあげるよ」
 娘は馬に鞍を載せ鐙を付けると、手を貸して乗馬させてくれた。最初は手綱を持ち、そして慣れてきたら手綱を預けられ、
「止まるときは引いて、進むときは緩めるの。そうそう」
 ひとときの即製乗馬指導が終わると、
「おまえ、元気にやってくんだよ」と馬体を叩き、厩舎に彼を休ませた。
 厩舎のベンチに並んで座り、
「ね、東京ってどんなとこ?」
「一年住んだくらいじゃ、まだ右も左も判らないよ」
「田舎はどこなの?」
「静岡」
「一年で日本一周するんじゃ、そろそろ立たなきゃだね」
「うん」
 言葉が途切れた。目と目が合い、懸命に逸らすまいとする。彼女が目を閉じる。僕たちはキスをした。彼女は僕の胸に凭れかかり、僕は彼女の肩を引き寄せる。僕と彼女は抱きあい、彼女小さな胸の膨らみを鳩尾に感じる。彼女の耳元に囁く。
「僕は逃げてきたんだ」
「何から?」
「人の腕を折った」
「そんなんじゃ、指名手配にもならないね」彼女は笑った。
「あんなに簡単に折れるとは思わなかった」
「人の骨なんて簡単には折れないよ」
「試してみる?」
「うん、いいよ……」抱き合ったまま彼女も囁く。
 畜舎の外では虫が鳴いていた。ジリジリと燈った誘蛾灯に引き寄せられた羽虫が飛んでいる。彼女の肩を両手に包み、抱き合った彼女を引き離す。お互い見つめ合い、また貪るようにキスをする。
「ねぇ、私の腕を折って……」
「わかった……」
 彼女の服の裾を捲りあげ、スポーツブラをずらし、乳首を吸う。
「ねぇ……」
 彼女の腕が折れるのか? なんのために。なんの意味もないじゃないか! 彼女は何を言ってるんだ?
「ねぇ……」
「うん……」
 彼女は自分の服を直した。半袖の左腕を差し出す。薄っすらとした産毛が蛍光灯で金色に光る。彼女の手の甲に唇を充てる。産毛に沿って、前腕から上腕に掛けて唇で撫でる。
「お願い……」
「うん……」
 彼女の腕を灯りに掲げる。まるで生まれたてのようだ。
「お願い……」
「わかった……」
 彼女の左腕の前腕の両端を掴む。
「いくよ」
「うん」
 氷の心を以て、美しいオブジェのような彼女の腕に力を込め、膝に打ち下ろした。
 パッという音が響いた。
 まるで氷柱が縦に割れるような音だと思った。
 彼女が蹲る。
 彼女を抱きしめた。
「行って……」
「え」
「行って! ここから出て行って!」
 彼女から徐々に体を離し、後ろ向きに歩き、やがて踵を返して厩舎を出る。
 そのままコテージまで戻ると、寝静まっている皆を余所に荷物を纏めてバイクに積み、農場から走り去った。

 羅臼峠を越えて、オホーツク海沿いに北上する。不思議と凪いだ海がつづく。宗谷岬で広い空を見つめてから日本海を下って行った。たまに、海岸に下りて、焚火をして丸まって眠った。
 或る日、海岸を歩いていると、砂浜に薪で焚火の櫓を組んでいる同年代くらいの男の人と巡り合った。彼はとても大きな櫓を組んでいた。四角く組んだ櫓の中に何か白いものが横たわっている。
 それは蒼白い顔をした少女だった。
「生きてるんですか?」
「昨日亡くなった。宗谷岬を見たいと言うんでここまで車で連れて来たけど間に合わなかった。
 火葬場なんかに送りたくない。空と海へ返してあげたい」
 野太くゴツゴツした櫓に囲われた少女は、まるで囚われの身の王女のようだ。王子のキスで頬に赤みを取り戻し眠りから覚める……。
 でもそれは違う。彼女は精が抜かれた人間特有の虚(うつろ)だ。櫓に凭れた身体は人間でもない、人形でもない、正真正銘の亡き骸だった。よく見ると薄明の中でもその頬はこけ、両腕は骨が浮き出ている。
 海は鮮やかな群青だが、空は鈍色に淀んでいる。波は荒く、空と海の境が曖昧だ。海岸は雑多な漂流物が打ち上げられているけれど、まったくすべてが自然物で、匂いといえば僅かな海草類が放つ磯くささだけだ。
 男の顔も青白く、唇は灰色だった。まるで少女と一緒に徐々に精気を抜かれているようだ。その彼が、紺のトレーナーに紺のジーンズで、額に掛かる前髪を煩さそうにして、自分が積み上げた火葬の櫓を茫然と突っ立って見つめている。
 あたりにはまるで人気がなく、海岸道路はさっきからまったく動くものは現れなかった。まるでここが世界の果てで、僕と彼と彼女の亡き骸だけが、この世界に取り残されたようだ。
 太陽が徐々に西の水平線に近づき、空が焼けだした。空気が冷気を孕み、赤球が群青の向こうへ隠れようとしている。
 日没の間際、一瞬鮮やかな緑色に光った。それも間もなく水の中に沈んでいった。
「ちょっと待ってて」。男に言い残し、バイクまで戻り、苦労してカワサキを砂浜まで下ろし、櫓の前に立てかける。そして空のペットボトルにバイクからガソリンを入れ、それを櫓の上から掛ける。それを何回も繰り返し、バイクのタンクが空になると、ジッポのライターを彼の手に握らせた。
 彼は何か不思議なものを見つめるようにライターを掌の中で転がした。
 あたりは、この世界の果てのような海岸で、まるで世界の終わりのような真紅の夕焼けだった。
 彼は唐突に櫓から一本の薪を取り出すと、ジッポに火を点け、木の先端に火を移した。端にはガソリンが掛かっていたとみえ、勢いよく炎が燃え出した。櫓の下部に火を差し込む。少女は夕闇と櫓の翳になってそのグレーのワンピースも朧だ。徐々に炎が櫓に移る。始めのうち櫓の底で膨大な量の煙を出していた火は、徐々に少女と櫓に移り、メラメラと燃え上がって来る。少女が炎に包まれる。それはこういったら誤解を生むかもしれないけれど、とても美しかった。『地獄変』じゃないけれど、炎と少女は完璧な「美」だった。でもそれもやがて炭化が進むとあっけなく美しさは消えてしまった。櫓も燃え上がり、あっという間に僕たちの背の倍くらいに達する。世界の果ての世界の終わりの炎は、逆説的にまるで原始の火のようだ。僕たちはいつまでもその始まりとも終わりともつかない火を見つめつづける。

 翌朝シュラフから抜け出すと、男がしゃがみ込み、炭となった薪を掻き分けていた。近くに座ると彼は骨壺に骨を選り分けていた。僕も手伝う。
「これが喉仏……」
 男が無造作に摘まむ。彼は一際長い骨を拾った。大腿あたりだろう。彼は思いのほか力強い動作で大腿骨を自分のジーンズに叩き付け、細かく割った。とても大げさな音がする。細かくした骨は彼の手で骨壺に納められる。
 やや長めの骨を拾う。きっと上腕か前腕だろう。この腕は折れないな。その腕の骨を彼に差し出す。彼はさっきやったような動作をして、僕に折るように促す。
「供養と思って……」男がポツリと言った。
 僕はなおも彼に向かって腕の骨を差し出しつづけた。こんなことをいつまでも続ける訳にはいかないんだ。
「供養と思って……」。もの憂げなはずの彼の瞳に炎が宿った。それはよく見ないと見逃してしまいそうな炎だけど、一度捉えたその灯火は、なぜだろう有無を言わせないものがあった。
 ため息をついた。いったい何故僕なのだろう。何故人の腕なのだろう……? 
 両腕に力を込める。

 骨を集めた僕たちは、海岸道路まで戻って、僕のバイクに彼の車のガソリンを分けてもらい、彼はそのまま宗谷岬を目指し、僕は僕の旅をつづけに南へ下って行った。

 本州に戻った僕は東北の西海岸をひたすら南下した。本州はまだ盛夏で小まめに水分を摂らないとあっという間に脱水症状になる。髪と髭は伸び放題になり、町に入ると数日振りの風呂に入る。ライダースーツは汗臭く、耐えがたいまでになった。我慢しきれず、上半身はTシャツになり、スーツはズボンだけ穿く。
 或るときコンビニでペットボトルのスポーツドリンクを買ってくると、タンクトップにジーンズという格好の小柄な女の子が僕のバイクを繁々と眺めている。
「そのバイクがどうかした?」
「これ、貴方の?」
「そう」
「貴方もツーリング?」
「まあ、そんなとこ」
「ねぇ、私と一緒に走らない?」
「え?」
「だめ?」
「君はどこへ行くの?」
「夏休みいっぱい使って、九州まで行ってフェリーで帰って来るの、貴方は?」
「この一年使って、日本一周してるところ、初夏は北海道だったよ」
「じゃあ、行く先は途中まで一緒ね。ねぇ、女の一人旅って何かと面倒なの。お願い! このとおり!」彼女は最敬礼をした。
 2、3発ヤラしてくれれば考えないでもないけど、経験的に言ってこういうタイプの女の子が求めているのは、そんなことじゃないだろう。要するに体のいいボディーガードだ。なかなかかわいい子で心動かせられない訳じゃないけど、ちょっと面倒だな、とも思った。実際、一人で気楽な旅をしたかった。時間もタップリあるし、夏休みだけ使って急いで九州まで行くつもりはない。
 逡巡を見て取ったのか、彼女は、
「お願い! お願い!」と拝み倒しに掛かった。
「じゃあ、こういうのはどう? 取り敢えず行けるところまで一緒に行く。それぞれ、自分のペースで行きたいと思ったら、その時点で別れる」
「うん、それでいいよ」
 まったく、何だって女の子っていうのは、寄って欲しいときに寄ってこなくて、一人でいたいときに寄ってくるんだろう?

 僕は別に走り屋じゃない。スピード狂でもないし、そもそもバイクからしてそんなタイプのものじゃない。女の子でも難なく着いて来れる。ごくたまに彼女が先導を申し出ることがあったけど、彼女の走りはじつに軽快だ。いかにもバイクに乗り慣れている人のスムーズな体重移動であり、コーナーワークだ。彼女のバイクはAR-50で、僕同様けっして走り屋タイプのバイクじゃなかったけれど、慣れた若い女の子なら、まずまずの単車だろう。夜は彼女は安宿かユースホステルに泊まり、僕は海岸や公園でテントを張って眠った。

 僕と彼女は或る海水浴場の砂浜に下りる階段に腰かけている。二人ともスポーツドリンクをガブガブ飲んでいる。時々思い出したように「あちぃ」と呟く。
 彼女を横に感じながら、高校時代のことを思い出していた。
 そのときも、当時付き合っていた女の子と海岸に座っていた。二人とも無言でボーっと水平線を見つめていた。二人で一つのポカリスエットを回し飲みして、ダラダラ汗をかいていた。
 将来に関する展望もなく、寄って立つべき価値観もなかった。高校時代の彼女がどこに目を付けて僕の告白を受け入れたのか、ぜんぜん判らなかった。僕にしたって勝算があって告白した訳じゃなかった。とにかく已むに已まれぬ衝動に突き動かされただけだった。
 よく彼女をバイクの後ろに乗せて海まで行った。そして二人でいつまでも海の向こうを見つめていた。
 高校のとき、後ろに手を着いて、ちょうど膝を抱えている彼女のうなじを見つめていた。隣に座っている彼女は、とても無防備に見えた。彼女の頬から首筋にかけて触りたいという欲求に駆られた。それだけ長い間彼女の横顔を眺めていた。ほんとうはそんな大した時間じゃなかったかもしれない。でも結局彼女の頬に触れなかった。彼女に向けていた視線を水平線に移した。そして彼女に聞こえないように大きく息を吐いた。
 大学生の僕は、高校のときと同じような角度で、同伴者の横顔を眺めている。もちろん彼女の頬に触れようとは思わない。彼女は旅の同伴者であっても恋人じゃない。
 高校生のとき彼女と何を話したんだっけ? 懸命に思い出そうとしたけれど、記憶は漠として心にうまく引っかかってくれない。暑さのせいだ。デリケートな記憶を掘り起こすには、陽光がキツ過ぎる。ただ彼女の横顔を記憶に呼び起こすのに留めた。
 不意に同伴者が振り向く。
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」
 大学生の僕は、大急ぎで記憶を自分のポケットの中に仕舞い込む。

 同行して何日目だろうか、雨にたたられる。次の大きな町まで距離があり、ずぶ濡れになって走る。町に着いたとき悪寒があり、その日彼女の泊まる旅館に同宿した。39℃の熱があり、早々に布団に潜り込む。
「きっと疲れが出たんだね」
「ごめん、君を巻き込んで」
「気にしない、気にしない」。彼女はいっとき僕を介抱したあと、部屋に引き上げていった。
 熱は中々下がらず、不本意ながらも連泊する。彼女は次第に僕の部屋に入り浸りになり、僕は今までの自分の旅について彼女に語った。この旅で合計3本の人の腕を折ったことを告げると、彼女は驚きを隠さず、次に考え込んだ。
「ねぇ」
「うん?」
「私、金沢に有名なヒーラーさんがいることを聞いたことがあるんだけど、よかったら診てもらわない?」
「ヒーラー?」
「占い師でもあるんだけど、もっと広い意味でお客さんを癒してくれるんだって」
「そいういうのに興味なかったけど、こんなことここまで続いちゃったらそういう人に診てもらうのも手かなぁ」
「そうしなよ、私ちょっとツテがあるからさ」
「うん、わかった。ありがとう」

 熱が下がり金沢に入って宿をとった。彼女は宿の電話であちこちに連絡した後、部屋に戻ってきて、
「明後日の朝10時に木屋町の千束屋っていう和食料理の店まで来てくれって」
「よく掴まったね」
「旅なんかの事情を話したら、特別に時間を空けてくれたって」
「何から何まで、申し訳ない」
「私の腕を折られちゃ嫌だもんね」
「けっこう、笑いごとじゃないんだけど」
「私だって、まじめだよ。私、そういうこと全然信じない訳じゃないんだ」
「ごめん」
「もう、謝るの止めなって!」
「うん、ありがとう」

 当日も金沢市は午前中に真夏日を記録した。今日も暑くなりそうだ。9時半頃に宿を出て、歩いて千束屋に向かう。
「いらっしゃいませー」
 何の変哲もない和食料理屋で、名前を告げると、
「あ、中でお待ちですよ」と、店の一番奥の席に通される。
 古びているがちゃんとした薄茶のスーツを来た初老の婦人が待っていた。化粧気はない。名を告げると彼女は立ち上がって握手を求めた。
「進藤といいます。よろしくね」
 あまりに普通の人で拍子抜けするとともに、どこか安心してもいた。彼女はなんとなく八千草薫に似ていると思った。
「だいたいのことは、彼女に聞いたわ。結構珍しい話よね」
「はあ」。この人大丈夫かな、とちょっと不安になる。
「じゃあ、早速始めようかしら」
「あ、私、席外します」
「貴女は彼の恋人?」
「いいえ、友人です」
「じゃあ、ちょっと外してもらおうかしら」
「はい」
「じゃあ、座って」
 彼女は所謂、占い師のイメージとはぜんぜん違う。オーラというか、その手の妖しさのようなものはまったく感じず、町ですれ違ってもそのまま通り過ぎてしまうような類の人だ。
「じゃあ、詳しくお話しをあなたの口からお聞きしようかしら」
「はい」
 これは春の岩手から始まったこと、道東の牧場のこと、北北海道の海岸での葬送のことを掻い摘んで話す。
「あなたは、その岩手のガソリンスタンドを逃げ出したのはよくなかったわね。ありきたりな応えかもしれないけれど、そこからすべてが始まったようね。
 帯広の娘さんは気の毒なことをしたわ。おそらく後遺症が残るわ」
「そんな……」
「かわいそうだけど仕方ないわ。救いは彼女が少しも後悔してないことね。自業自得と思っている」
僕にできることはないんですか?」
「ないわ」彼女はキッパリと言った。
「もう貴方と彼女の人生が交わることは金輪際ないわ。連絡をとろうにも彼女は貴方を避けるでしょうね」
「そんな」
「問題は、日本海で貴方と男の人がやった、少女の葬送のことだと思うの」
「なにかまずいことを僕はしましたか?」
「ううん、やったこと自体はとっても久徳のある尊いことよ。でも、その火葬された彼女の最期の想いが強すぎたのね。あなたはその一部をまだ引きずっているわ」
「……」
「あなたの両手を出して」
「はい」
「目を瞑って」
「はい」
 彼女は僕の両手を自分の両手の上の載せ、親指をそれぞれの掌の中心に据えた。
「ね、想像して」
「はい」
「今から、あなたは私の左腕を折るの」
「え!」
「ほんとうに折るんじゃないの。心の中で折るの。私は私の心の中で貴方に腕を折られる。これは一種の依代と思って。想像の中で、少女を葬送したときのように、私の腕を折るの。そして祈るの。いい?」
「はい、わかりました」
 それは意外に容易なことではなかった。手の平は彼女の手の上にある。掌には彼女の親指から何か伝わってくるものがあった。そしてこの状態で彼女腕を折ることを想像しなくてはならないのだ。
 掌の組み合わせはそのままに意識を集中する。あたりは洞穴のように真っ暗だ。僕は僕の腕で彼女の腕を折ることを諦め、意識の中で創りだしたもう一組の両腕を想像する。そしてまた想念の中でヒーラーの老婦人のこと想像し、彼女の左腕の前腕を捧げ持つ。辺りに冷気がスッと入ってきて、どこか遠くで洞穴の天井から冷たい雫が地面に落ちる。捧げ持った彼女の腕の重みを確かに感じる。冷気にも拘わらず額に汗が浮かび、彼女の貌を窺おうとすると、
「私の貌は見ちゃダメ」
「え!」
「貴方は私の貌を見たらだめよ。いい?」
「はい」
 いったい、この会話は想念の彼女と交わしているのか、テーブル越しの彼女と交わしているのか訳が分からなくなる。
「余計なことは考えず、あなたはあなたのすべきことをするの」
「はい」
 更に意識を集中して、彼女の前腕を高々と掲げる。彼女の貌は左腕の向こう側にある。意識の中でさらに瞼を閉じる。二重の闇が僕を包む。一気に彼女の腕を膝に下ろした。
 それは、今まで折って来たどんな腕とも違った音だった。気持ちよく響いたり、氷柱のように割れたり、火葬で乾いた骨が割れたり、というのとはまったく異質は音だ。喩えていえばまるで鈍器を鈍器で砕くような音だ。とっさに二重の瞼を一気に開く。
 彼女の顔はハンケチで拭いている彼女の右手の向こうにあった。彼女は手をどけるとにっこり笑った。
「終わったわ」

 ヒーラーの老婦人は店の外まで送ってくれた。
「いい、こう考えて、あなたはまだ病み上がりで完全な状態じゃないの。そこには、いろいろなものの付け入る隙があるの。あなたに旅を止めろとは言わないけれど、十分注意しても注意し過ぎることはないわ。
 もし、あなたの隙に付け入るモノが現れたとしたら、あなたが私の腕を折るときに感じた物事を思い出しなさい。あなたの感じた温度、明り、折ったときの感触、そんなものをね」
「はい、わかりました。ありがとうございました」
 彼女は最後に左腕を差し出した。僕が折った腕だ。彼女の手の平を握り、彼女も握り返す。しっかりした力強い握手だった。

「ねぇ、効き目ありそう?」、席を外していた彼女が僕に訊く。
「どうかな。おまじないみたいなもんだしね」
「そんなこと言ったら進藤さんに悪いわよ」
「でも、こんなことしてもらったのは初めてなんだもの」
「進藤さんが信用できないってこと?」
「そうじゃない。彼女は信頼していいと思ってる。でも、今までのもって生まれた考え方の範疇に彼女みたいな人はいなかったんだよ。多分、それで戸惑ってるんだと思う」
「ふ~ん。つまんないの」
「つまんない?」
「あなた、何も世の中の科学的なことを否定するわけじゃないけど、もっと世間の在り様のようなものを知っておくべきだと思うな」
「君はそういう経験してきたの?」
「しょっちゅう、ってわけじゃないけどね」
「ふ~ん」
「『ふ~ん』だって。やな感じ!!」と彼女は脛をけっ飛ばしてきた。

 宮津に入ったところで僕の軍資金が底尽きた。
「どうやら、ここでお別れみたいだね」
 バイクを下りて、公園脇に駐輪した僕たちは、まるで別れ話をしているカップルのような表情でお互いを見る。彼女は下を俯き、靴で道路に見えない円を描く。
「ねえ、あなた私のことどう思ってた?」
「どうって……」
「ただバイク転がしてるだけで満足な、ノーテンキな奴だと思ってた?」
「……」
「私だって女だよ。マラソンの先導車じゃなんだよ」
「……」
「ごめん! いいの。あなたが私を大切に扱ってくれたことは判ってるの。でもね、もうちょっと勇気ってものを持ったほうがいいじゃないかな?」
「……」
「せっかく冒険の旅に出たんだからさ、そんな訳の判らないことに、蛮勇を使うんじゃなくて、勇気を使うタイミングっていうものを、もっと自分の頭で考えたら?」
「ずいぶん手厳しいんだね」
「私あなたが心配……」。とっさに彼女は僕の首に抱き付いた。それも一瞬のことですぐ身体を離した。
「じゃあね!」
「うん、よい旅を!」
「よい旅を!」

 彼女のバイクが去って行くのを見ているときに、彼女を抱きしめ返したほうがよかったな、と後悔した。いつも後になって大事なことを思い出す。後悔ばかりしている。すべきときにすべきじゃないことをして、すべきじゃないときに余計なことしてしまう。あの高校生のとき、彼女の頬に触れるべきだったんだ。どうして判らなかったんだろう。そんなこと今頃になって気づくなんてまったくどうしようもないバカだ。
 その夜、海岸でシュラフにくるまりながら、走り去った彼女のうなじから頬を思った。僕は勃起した。今頃こんなんなったって何の役にも立たないのに。自慰しようとしたけど、馬鹿らしくなってやめる。風が心地よい。秋の気配を感じるのは気のせいだろうか。

 魚肉加工工場でバイトをして小金をため、宮津を立つ。その間、台風を一つやり過ごして、空が高くなり、ライダースーツを襟だけ開けて上着も着込み、風呂屋を見つけると、髭を剃るようになる。城崎の床屋で思い切って、髪の毛が立つほど短髪にする。
 纏わりついていた彼女の影を振り払うように、身も辺りの空気も軽くなる。旅に出てから初めて孤独を感じる。悪くない。ちっとも悪くない。
 何日も誰とも話さない日がつづく。一人でいることが身体の芯に沁み込んでいくのが判る。空はますますこちらから離れていき、それに連れて人びととの距離も感じるようになる。どうやら進藤さんが祓ったものは、それに付随する何かをも運び去ったようだ。憑き物が、いい意味でもそうでない意味でも、旅をカラフルにしていた。それに比べ、今の旅はモノトーンだ。そしてこれが恐らく本来のあるべき姿なのだろう。
 松江に入る頃には、一緒に走った彼女のことをよく思い出した。休日の気持ちいい天気の砂浜はどこでも家族連ればかりだ。亡き骸を焼くなんて物騒なことをやっている人なんていない。平和で長閑な初秋の昼下がりだ。浜に一人で座ってスポーツドリンクを飲む。隣に誰かの影を探すけどうまくいかない。おまえは今までも一人だったし、これからも一人なんだ。誰かにそう言われているような気がする。
 江の川でチームを組んでツーリングをしている人たちに出会う。誘われるままに一緒に走る。夜は焚火を囲んでキャンプのように酒盛りをする。
 でもそんな人の環の中にあって、どこか居心地の悪さのようなものを払拭できない。萩で適当な理由をつくって彼らと別れる。何人かの男に連絡先を教えてもらう。彼らが去った後、それらをライターで焼いた。こちらが教えた電話番号はデタラメだった。
 関門トンネルをくぐって九州に入ったけど、とくに感興のようなものはない。
 旅に倦んでいるのかと我を疑う。また、人の腕を折るような、人を傷つけて回るような旅をどこかで望んでいるのだろうか。
 そんな筈はない。
 自分に言い聞かせる。どれだけ旅がカラフルになろうと、どれだけ旅に倦んでいようと、そういう世界との橋を焼き捨てたのだし、もう後戻りはできないんだ。
 本当にそうか?

 福岡市の海浜公園でテントを張ってキャンプする。シュラフに包まって熟眠していたら夢を見る。十数人の影のような男たちにひたひたと取り囲まれる。男たちは金属バットや角材のようなものを手にしている。金縛りに遭い身動きが取れない。男たちは、じりじりと間合いを詰めて来る。身体中に嫌な汗を掻き、動悸が激しくなる。男たちの標的は何でもいい。ただ自分たちの攻撃性を発散したいだけだ。彼らは無言だ。最初から「狩り」をすることだけが目的なのだ。
 前に一歩進み出た一人の男の握った角材が振り下ろされるその瞬間に目が覚める。金縛りが解けテントの中で一気に起き上がる。心臓が早鐘を打ち、頬を汗が伝う。ホッと息をつき嫌な汗を拭う。そのときだった、テントが激しく叩かれたと思うと、ビリッという擦過音を残してテントが引き裂かれた。闇の中の主たちに激しく殴打され、身体を丸める。後はズタ袋のように滅多打ちにされなすすべもない。激しい動物的な衝動に食い荒らされているようだ。痛みのうちに憤怒が頭をもたげてくる。起き上がりざま反撃に出ようとしたところで、頭部に衝撃が走り意識が飛んだ。

 寒さで目が覚めた。襲撃者の目的はただ相手を痛めつけるだけのようで、所持品を荒らされた様子はない。ただテントだけが無残に骨組みから破壊されていた。節々が痛む。折れているところはないかと、手足をゆっくり動かす。鈍痛はするが骨折はしてないようだ。頭部は巨大な瘤になっていた。手足を伸ばし仰向けになる。今更ながら、驟雨が顔に当たっているのを気が付いた。

 安物のテントを買い、同じ場所に張る。物陰に隠れて、襲撃者を待つ。金属バットを握りしめている。夜が深まるうちに昨日の憤怒が蘇ってくる。
 影が集まってきた。皆アイマスクをしている。終始無言で港の闇に溶け込んでいる。影が昨晩そうしたように、テントに角材を振り下ろした。その瞬間脱兎のごとく飛び出して、テントの周りに集まっている影たちを纏めて滅多打ちにした。
 完全は不意打ちになった。一目散に駆けだす影もいたけど、尻もちをついて、バットの攻撃を交わしている影もいる。気づいたら、一人の中背の影が一人だけ逃げ遅れていた。後は蜘蛛の子を散らすように、姿を消していた。しかし理不尽までに次から次へと湧き起こる怒りは抑えつけられなかった。影の顔面目がけてバットを思いっきり振り下ろす。影は両腕で顔を覆った。「ゴッ」という鈍い音がした。金属バットに、ミシっとした感触があった。はっと我に返った。影は腕を抱えてのたうち回っていた。茫然として奴を見下ろす。手からバットを取り落とす。カランという乾いた音がしてバットは転がって行った。暫く動きが取れない。橋は焼き落ちてはいなかった。知らずうちに向こう岸に渡っていたのだ。一歩一歩と後ずさりし、公園を横切りバイクに跨った。
 いいのか? このまま走り去ってもいいのか? 踵を返して元の場所へ戻る。そこには破壊されたテントとバットだけ残して誰もいなかった。まるで最初から僕が彼らを理不尽に襲撃したように……。

     *

 あなたにこのような手紙を書いたって、読むのは来年の春だということは分かっているのだけれど、でもやっぱり書かずにはおけないのでこうしてPCに向かってます。
 あなたはあの夏のN海岸で私の横顔をずっと見ていたでしょう。気づいてないと思ってましたか? あんなにジッと見られて気づかない女の子なんて、きっとよっぽど鈍いか、彼氏もちじゃないでしょうか。私はあなたがいつ私の頬に手を出すのかジッと待っていたなんて本当に気づかなったんですか? あなたってほんとにトンマさんなんですね。帯広の牧場の女の子はきっと私なんかよりよっぽど積極的っていうか、直接的だったんですね。それくらいじゃないとあなたには近づけないみたい。
 私はあれからあなたがどんな旅を、そもそも無事に旅を終えることができるのか、とっても心配です。あれからあなたにどんなことが起きるかなんて見当もつかないけれど、それはきっと私と別れるまでつづいてきた旅とはガラッと様子が変わることくらいは予想できます。
 思うのですが、私とあなたはあの宮津で別れるべきではなかったのです。私も宮津の魚肉加工工場で働いて、あなたとの旅をつづけるべきだったのです。
 そう思わない?
 そう思っているのが私だけだったとしたらとても悲しいです。私は別に無理に九州になんて行かなくたってよかったんです。あなたが「俺と一緒に走ってくれ」と言ったら、私は二つ返事でОKしてたでしょう。
 あなたは今頃どのあたりを走っているのかな。もう九州のいちばん南までいったのかな。
 ところで私はなんでこんな手紙をあなたに書いているか分かりますか? これはクイズです。もしそんなことも判らないほどあなたがトンマだとしたら……、私はとても悲しいです。何も怒っているのではありません。ただただ悲しいだけです。
 当分、お返事の来る当てのないこの手紙をそろそろ終えようと思います。そしてまた、当分、お返事がくる当てのない手紙を書きます。
 いったい私は何をやっているのでしょうね。
 それではひとまず、さようなら。

     *

 よっ! あなたは私が誰だか判る? あなたが私の牧場の厩舎で私にエッチなことをしたKだよ。
 やっとこの間添え木が取れたよ。
 私あのときなんであんなこと言っちゃったんだろうね? きっと絵本なんかで読む夏の夜の魔物が悪戯したんだろうね。
 あなたはきっと誤解しているだろうけど、あれは私のファーストキスだったんだよ。そんな相手に腕折られちゃうなんてね。バカだね。ううん、却って本望かな? いや、うん、やっぱ判らないや。
 あなたは今頃もバキバキ男やら女やら、若いのやら若くない人やらの腕の骨を折って日本中旅をしているのかしら? 
 そんなまさかね(笑)。
 でもね、やっぱり私はあなたが怖いの。もう一度会ってみたい気持ちもない訳じゃないけれど、怖いの。何故って、どうしてかわからないけれど、あなたと会ったら、なんだかまた同じことをしてしまいそうだから……。
 そんなまさかね。
 でも怖いのはほんとうなんだ。理屈じゃわかないけど、こうやってあなたにまた会ったときのことを想像するだけで、背筋が凍りそうになるの。
 ごめんね、ファーストキスの相手なのにね。

 これは私のためだけの文章。誰に読んでもらうあてなんてない。私が話しかけているのは私自身。アンネ・フランクの「キティ」のようなもの。
 さてさて、明日も朝は早い。おやすみなさい。

     *

 その青年を一目見たとき、私は自然に彼に好感をもった。そしてこんな青年がなんでそんなことに? と自分の目を訝った。何か私が見逃していることはないのだろうか。しかし、これといって感じることはない。私は自分の「力」の衰えを危惧した。
 彼に不信感を抱かせずに、さりげなく、しかし仔細に彼を窺った。私はある取っ掛かりに気づいた。いや、取っ掛かりというほどのものではない、微かな違和感だ。私が彼の前に座って彼と対峙したときその違和がなんなのかが分かった。
 彼の視線が妙に奥行きがないのだ。
 こんなこと気づくのは私くらいなのかもしれない。でも私にはわかった。
 彼は私の指示どおり従順に私の掌に自分の掌を載せた。彼は私のいうことそのまま、地下の世界に下りて行った。まったく「従順」そのものだ
 普通の人はこうはいかない。
 私の指示を訝り、心の集中に多大なエネルギーを要し、その下りて行った世界に戸惑う……。
 しかし、彼はいとも容易く私の導きに導かれていった。こんなことはまずない。私の違和は確信に変わった。
 彼には「今」しかないのだ。過去の積み上げによる成長もないし、未来の展望に対する希望や不安もない。私はこう思った。彼はまだ心的には生まれてさえないのでは? 彼はこの歳になっても心的な羊水にいるのではないだろうか? 彼はどんどん、地下世界に下っていき、私は慌てた。いとも容易く想念で「私の腕」を折ったときには思わず冷や汗を掻いた。こんなことは初めてだった。
 いったい私はこの青年に何をしてやることができるだろう? 彼は私の数十年の経験からしてもまったく新しいタイプの問題を抱えていた。こんな青年が二〇年も生きてこれたなんて! 私そのこと自体、奇跡のようにも感じた。残念ながら彼は私の手には余った。「依代」だなんて、私はもっともらしくその場を繕ったに過ぎない。彼にこのまま旅を続けさせてはいけない。でも私はそれを口に出来なかった。自分が納得していないことをどうして相手に納得させることができるだろう。
 私は彼と握手をし、彼と別れたあと、自分の徒労感と無力感に苛まれた。私はそろそろこの世界につい行けなくなっているのかもしれない。私が彼の前途の無事を祈ったのは、「ヒーラー」としてではなく、単なる一人の老いさらばえた老婆としての願いでしかない。
 でも誰かが救ってやらなくてはならいのだ。もしくは彼自身が「彼自身」に思いを致すことができるだろうか? 残念ながらその可能性は限りなく少ない。

     *

 佐多岬に着いたのは、夜も更けきった頃だ。当然展望台へのゲートは締め切られていたけど、構わず跨いで先に進む。エレベーターは電源を落とされ、螺旋階段を登る。
 屋上に出ると漆黒の闇の中に点々と灯りが燈っている。次第に目が慣れてくると、ぐるりと鉄柵が囲み、コイン式の双眼鏡がところどころ項垂れている。点々とした灯火はどうやら日向灘に入って行く船のようだ。
 鉄柵に掴まりその希望のような灯火を追う。
 静かだ。
 時折、微風が辺りの藪をざわめかしたけれど、すぐ止んだ。船の汽笛もここまで届かない。ジッとその徐々に移動する灯りを追う。風が優しく顔を撫で、伸びきった髪を揺らす。たまらなく髭を剃りたくなる。何もかもサッパリしてこの灯火を眺めたくなる。
 僕は唐突に泣く。
 涙が瞳に徐々に溜まったと思うと、微風がしずくを頬に伝わす。
 何故泣いているのか理由が判らない。特に感興を催す風景でもないし、直近に悲しい出来事があった訳でもない。
 でも涙は次から次へと溢れだし止められない。鉄柵に掴まったまましゃがみ込み嗚咽を漏らす。今では声さえ上げていた。
 思い出していた。あのヒーラーの老婦人の腕を想念の中で折ったときの感触を。洞穴のような闇を。天井からしたたる水滴を。婦人の腕を折った鈍痛のような感触を。
 いつ泣き止んだのかさえ定がでない。顔をすっかり乾いていたし、視界もクリアだ。背筋を伸ばし。日向灘の灯火をジッと眺める。それまでずっとそうしてきたのだし、先ほどの嗚咽がまるで一種の幻想だったかのように……。
 翌朝、展望台で丸くなって眠りこけているところ係員にゆすり起こされ、不法侵入を詫びて早々に岬を後にする。
 日向灘に沿って北へ向かう。そして明け方の自分の涙の意味を自分に問いかける。しかしやがて考えるのを止めてしまう。人間は所詮、人間のすべてに合点がいくことなどないのだ。それが喩え自分のことであろうとも。

 橋は焼け落ちてはいなかった。自分とあちら側にはまだ強固は橋が架かっている。でも今はそのことについて気に病むのは止めよう。結局、起きることは起きるのだし、起きないことは起きない。そのコントロールは自分の能力の埒外だ。今はただ旅を無事に終わらせることだけを考えよう。
 日向灘は波高く荒々しい。右手にそんな海を感じながら順調に旅を続ける。本当に順調なのかは判らないけれど、とにかくこうして路面から振動に身を任せていると、不思議と落ち着いた気分になる。これまで順調だったし、これからも順調に推移していくような感じをもつ。実際はそんなことはないのに……。

     *

 もしもし、元気ですか? これは宇宙への名も分からない生命体宛ての通信のようなものです。いいえ、名前どころかも存在するかも分からぬ生命体への、あてどない通信かもしれません。
 なんだかんだいって最近、私はこうやって手紙をしたためているわけですけど、これば無事にあなたに届くのか、疑問に思い始めています。あんなに確かだったあなたとの旅の記憶が、だんだん(こんな短期間に!)薄れているような気がするのです。私は懸命になってそれを繋ぎ止めるため、このように海中へ投げる瓶詰通信のような手紙を書いています。
 覚えていますか? 私はヒーラーの進藤さんに「あなたは彼の恋人?」と言われたときに、「ただの友人です」と答えてましたよね。思うのですが、私はその場を偽ってでも、進藤さんとあなたのやり取りに付き添っていればよかったと思っています。
 なぜって?
 そんなこと自分でもわかりません(笑)。
 ただそう思うのです。
 あなたはこの旅でいっぱい過ちを繰り返したようですけど、私も全部が全部、「あれでよかったのかな?」と思い始めています。進藤さんとのことはその一つ。でもこれは単に私の勘です。
 結局私たちは、いろんな分かれ道に遭遇する訳で、その度に何かを捨てて何かを選ばなくてはならないのですけど、まえに私があなたに言ったように(言ったかな)、いつもゴウリテキに筋道立って物事決められるわけではないと思うのです。
 進藤さんとのことはその一つ。
 どうしてって?
 勘です(笑)。
 勘を馬鹿にしてはいけませんよ。そんなことばかりしていると、きっとあなたはそのうち手痛い(というのはオブラートに包んだ言い方で、ハッキリいえば、取り返しのつかない)ダメージを受けることになりますよ!
 これ、私からの忠告です。
 うん、なんだから段々、あなたに電波が届き始めた(ような気がする)(笑)。
 瓶詰通信は、ハッキリした星間交信になり、あなたも私も日本語を喋っていて……。
 また連絡します。
 待っていてください。

     *

 日向灘はどちらかというと単調だ。それが失敗の元だったのかもしれない。うちの間にか海のほうへ意識が飛んでいる癖がついていることに気が付いていた。有体にいえばボーっとしていたのだろう。だから、コリージョンコースに小さな女の子が立っていることには、視覚はずっと前からその網膜に捉えていたような気がする。でも、意識的な印象では、不意打ちだった。
 事故の直前、錯覚かもしれなけど、その女の子と視線が合った。
 信じてもらえないかもしれないけど、彼女と「心の交流」さえした。
 そして、「ハンドルを切らなきゃ」と思ったときには、びっくりするくらい彼女は目と鼻の先にいた。

 病院で意識を取り戻した。
 看護師さんの話しによると、僕は少女と衝突直前にハンドルを切り、そのままガードレールに突っ込んでいたらしい。
 少女は無事だった。
 静岡の実家には連絡は入れたそうだが、ここには誰も来ないだろうことは分かった。
 意識を取り戻し(失っていたのは半日がそこらだった)、主治医の問診があり、女性看護師と一頻り会話を交わし状況を把握したあと、彼女が去り一人取り残されたとき、今更ながら、自分が「人の腕を折る」程度のことで済まないことをしでかそうとしていたことに思い至り、スッと血の気が引いた。少女の目を思い出し、交通事故遺族の思いを特集していたテレビ番組を思い出し、憑かれたようにベッドから起き上がる。腕に激痛が走り、そのままベッドに倒れ込む。そうえいば看護師さんは、腕にヒビが入っていると言っていた。また、折れた腕が増えた。
 その週の週末、少女を連れた家族がやって来た。
 お互い一頻りお詫び合戦のような様相を呈し、その間少女はジッとこちらを棒立ちになって窺っていた。母親が彼女に「お兄さんにお詫びをしなさい」というと、ペコリと半ばからくり人形のように、通り一遍のお辞儀をした。少女の頭を撫でようとすると、彼女はスッと身を引いて僕の掌をかわした。そしてまた一頻りジッとこちら窺った。母親が非礼を詫び、僕がいえいえといい、その間も少女はこちらへの観察を怠らなかった。
 この年頃の子ってこんなに奥行きがない眼差しをしてたっけ、というほど平板な眼差しをしていた。彼女の眼差しを観察すると、自分が何か無生物になった気がする。その日はそのまま彼らは帰っていったが、唐突に事故直前の彼女との「心の交流」を思い出す。それはたったいまの少女との会見とはまったく性質の異なった交流だった。気のせいでなければ。
 医師によると2週間ばかりの入院で完治するとこのことだった。少女の家族は度々見舞いに来たが、或る日喫煙室でタバコを吸っていると。廊下で少女の家族が立ち話をしているのを見かける。こちらには気づいてないようだ。どうやら少女が病室に入るのを拒んでいるらしい。数日まえの少女が僕の掌をかわしたことを思い出す。その日は彼らは、病室に現れなかった。
 その後退院し、ユースホステルに1週間ほど滞在して通院した後、完治が告げられ、バイクで立つことになった。
 どこで聞きつけたのか、少女と両親が、ユースホステルまでやって来て見送りにきた。そのとき、既にエンジンをふかし、ヘルメットもかぶり出発直前だったが、丘上のユースホステルへの坂道を一家は上がって来た。
 両親と挨拶をし、餞別に魚の干物をもらったりしているとき、少女は少し間を置いて、いつものようにこちらを窺っていた。
「さ、香織、お兄さんにご挨拶して」母親の促しに少女は2、3歩こちらに歩み寄り、何か小さいものを差し出した。それは、小さな一輪の撫子だった。僕が撫子に手を伸ばす。少女はいつもと違って、口を真一文字に結び、眼差しにも意志的なものが認められた。
「ありがとう」
 その小さな紫の花を受け取り、胸のポケットに差すと、少女はまるでそこに新種の珍獣が出現したように、瞳をパッチリと見開いた。
「大切にするね」
 少女の「発見への驚き」とでもいえそうなものはそのままだった。
 バイクが立つとき、バックミラーに写る両親のお辞儀と、棒立ちのまま、体の正面をこちらに向けた少女の残像がいつまでも目に焼き付いた。

     *

 あなたが私の腕を折ったとき、私は一体の「人形」なったような気がしたのを微かに覚えている。
 私には「心」がなく、でも神様に与えられた「魂」だけははあって、あなたの願いを何でも叶えてあげたい気になっていた。
「心」がないのはあなたも一緒で、命あるものは、私の馬と誘蛾灯の羽虫たち。二体のドールズの私たちは、怖いものなんて何もなくて、あなたの魂の傷を癒すことを厭うゆえんは何もなかった。
 でも違った。「心」がないのはあなただけで、私には心も痛みを感じる力もある「生身の命」で、あなたの傷なんて癒せなかった。
 ううん。心がないあなたにはもしかして最初から傷なんてなかった? それとも魂の深いところではちゃんと、痛みを溜め込んでいたの?

     *

 ハロー、ハロー、聞こえてますか? こちらは星間定期便です。聞こえていたら応答してください。
 星間定期便の玉に瑕は届くことに恐ろしく時間がかかっちゃうことね。だって何光年も離れてるんだもの。何光年いうのが、時間じゃなくて距離のことだったらいいんだけれど。あれ、逆だっけ? ま、いいか(笑)。
 あなたが私から離れて独りぼっちだっていうことは容易に想像できるのだけど、それでもときには温かいものに触れる機会があったっていいわよね。どうかどうか、あなたに神様の恩寵がありますように。ナムナム。
 ずっと一人っきりでワイルドにストイックに(人の腕なんて折らないで)旅をやり通したっていうのもそれはそれでいいかもしれないけど、一つや二つくらい、こちらがホンワカするようなお土産話しをもってきてくれたらって思います。もしあなたが、そういう機会が転がっているところを出会ったとしたら、見過ごすことがありませんよう。その気になったら、そういうことっていくらでも転がっているんだよ。あなたには難しいことかもしれないけれど、チャレンジする価値は十分にある。うん、きっとある。
 そういうことがきっと「成長」っていうじゃないかなあ。あなたどう思う?

     *

北へ行きたい

 もうすでに半ば忘れられつつあるが、島崎敏樹は戦後日本・精神病理学の草分け的存在である。
 彼は著書『生きるとは何か』(岩波新書)の中で、ある症例として「心が枯れる病」にかかった女性を紹介している。
 私が心惹かれたのは、その女性が少女期に書いた一編の短い詩だった。

 わたしは北に行きたい
 わたしは北風になりたい
 家々の窓から吹き入って
 凍りついて眠りたい

 私はその頃、父親に買い与えられたばかりの世界地図を広げ、ちっぽけな日本列島の北にある広大は大地を見つめた。
 その大地に私は妙に魅了された。
 私が不思議に思ったのは、ヨーロッパや中国、アメリカのことは、ちょっと調べれば読み切れないほどの記述があるのに、この世界の広大な部分を埋めているその地についての記述は、(その頃の私が調べられる範囲では)皆無だったことである。きっとそこにも、人々の暮らしがあるはずなのに。
 私はその大地の空虚さに、堪らない魅力を感じた。
 その空虚は、あの少女のたましいの棲家のように夢想した。
 そこにはきっと、感情という嵐から難を逃れた、静寂なたましいたちが眠っているに違いない。
 そこは、ヨーロッパや中国といった、賑やかで猥雑な場所から逃れるための「約束の地」なのだ。
 あの少女の詩を読んだ頃の私も、心の泉が枯れかけていたのかもしれない。
 猥雑な世界に幼い幻滅を感じて、静寂な北の大地で、凍りついて眠りたかったのかもしれない。
 
 その地が「シベリア」と呼ばれていることを知ったのはいつのことだろう?
 そんな夢想する少年の頃は過ぎ、長じるにつれ、か細いながらも少しずつその地についての本を蒐集し読んでいった。
 司馬遼太郎の『ロシアについて』を読み、岩波文庫の『シベリア民話集』を読んだ。つい最近出版された『極寒のシベリアに生きる―トナカイと氷と先住民』高倉浩樹編(新泉社)は、日本でその地について知ることが出来る、嚆矢ともいえる本かもしれない。
 しかし、大人になった私は、そこは静かな人々が暮らしている地ではなく、単に人口過疎で、歴史らしい歴史劇が生まれ得なかった土地だということを知っている。
 そこには、トナカイを遊牧している数々の少数民族が暮らしていて、言語的系列を編みつつ散在していることも知っている。
 そして、今ではそこの大多数の住民はロシア人で、少数民族はその中に埋没していることも。
 さらにそこは天然資源の宝庫で、開発の触手が伸びていることも。
 身も蓋もない言い方をすれば、そこは単なる寒冷で広大な田舎なのだ。
 先住民の世界は魅力的だけれども、彼らだって当たり前に笑いも泣きもする。少年の頃の私風に言えば、猥雑な人間の世界なのだ。

 でも、私が夢見た北の大地の幻は霧消しても、私の心の中には、あるふとしたきっかけさえあれば、島崎敏樹が紹介した少女の詩が立ち現れてくる。
 北に憧れ、北風に憧れ、家々の窓から吹き入って、凍りついた眠りを夢想した少女の内的世界に、いまなお心惹かれている自分を発見する。