北へ行きたい
もうすでに半ば忘れられつつあるが、島崎敏樹は戦後日本・精神病理学の草分け的存在である。
彼は著書『生きるとは何か』(岩波新書)の中で、ある症例として「心が枯れる病」にかかった女性を紹介している。
私が心惹かれたのは、その女性が少女期に書いた一編の短い詩だった。
わたしは北に行きたい
わたしは北風になりたい
家々の窓から吹き入って
凍りついて眠りたい
私はその頃、父親に買い与えられたばかりの世界地図を広げ、ちっぽけな日本列島の北にある広大は大地を見つめた。
その大地に私は妙に魅了された。
私が不思議に思ったのは、ヨーロッパや中国、アメリカのことは、ちょっと調べれば読み切れないほどの記述があるのに、この世界の広大な部分を埋めているその地についての記述は、(その頃の私が調べられる範囲では)皆無だったことである。きっとそこにも、人々の暮らしがあるはずなのに。
私はその大地の空虚さに、堪らない魅力を感じた。
その空虚は、あの少女のたましいの棲家のように夢想した。
そこにはきっと、感情という嵐から難を逃れた、静寂なたましいたちが眠っているに違いない。
そこは、ヨーロッパや中国といった、賑やかで猥雑な場所から逃れるための「約束の地」なのだ。
あの少女の詩を読んだ頃の私も、心の泉が枯れかけていたのかもしれない。
猥雑な世界に幼い幻滅を感じて、静寂な北の大地で、凍りついて眠りたかったのかもしれない。
その地が「シベリア」と呼ばれていることを知ったのはいつのことだろう?
そんな夢想する少年の頃は過ぎ、長じるにつれ、か細いながらも少しずつその地についての本を蒐集し読んでいった。
司馬遼太郎の『ロシアについて』を読み、岩波文庫の『シベリア民話集』を読んだ。つい最近出版された『極寒のシベリアに生きる―トナカイと氷と先住民』高倉浩樹編(新泉社)は、日本でその地について知ることが出来る、嚆矢ともいえる本かもしれない。
しかし、大人になった私は、そこは静かな人々が暮らしている地ではなく、単に人口過疎で、歴史らしい歴史劇が生まれ得なかった土地だということを知っている。
そこには、トナカイを遊牧している数々の少数民族が暮らしていて、言語的系列を編みつつ散在していることも知っている。
そして、今ではそこの大多数の住民はロシア人で、少数民族はその中に埋没していることも。
さらにそこは天然資源の宝庫で、開発の触手が伸びていることも。
身も蓋もない言い方をすれば、そこは単なる寒冷で広大な田舎なのだ。
先住民の世界は魅力的だけれども、彼らだって当たり前に笑いも泣きもする。少年の頃の私風に言えば、猥雑な人間の世界なのだ。
でも、私が夢見た北の大地の幻は霧消しても、私の心の中には、あるふとしたきっかけさえあれば、島崎敏樹が紹介した少女の詩が立ち現れてくる。
北に憧れ、北風に憧れ、家々の窓から吹き入って、凍りついた眠りを夢想した少女の内的世界に、いまなお心惹かれている自分を発見する。