ダイダラボッチ(16枚)

 ダイダラボッチは歩いていた。自分がどこから来てどこへ行こうしていたのか既に彼には判らなくなっている。でも自然と足が前へ向いた。
 あたりは見渡す限りの草原で、間もなく夜が明けようとしている。地平線から陽光が差し、草原を赤く染める。前へ動かす足は朝露に濡れ、草をカサコソ鳴らした。虫が驚いて飛び立ち、冷たい風が肌を差す。やがて太陽は高く昇り、彼にささやかな温もりをもたらした。
 肌は全面苔に覆われ、背丈は2メートルあろうか、歩く肩に小鳥が止まり、蝶が草の髪の周りを飛ぶ。もう思い出せないくらい長い間、仲間たちに会っていない。旅に立ったのはいつだったろうか。何の前触れもなく或る日東へ向かって歩き始めた。仲間たちにさよならも言わなかった。その衝動はとても静かだけど力強かった。朝日が東の空に顔を覗かせていた。ああ、何かが俺を呼んでいる、彼は思った。思う先から足が動いていた。
 太陽が頭の上へ差し掛かる頃、草原の向こうに一群の森を認める。彼は森へ入って行く。頭上の木々に陽光が揺れ、風が梢を鳴らす。足裏の土は湿っていて、それは彼にとても心地よく触れてきた。森の奥へ奥へと足を運ぶ。虫たちが彼の髪の周りを飛び、栗鼠が驚いて草葉に隠れる。上からは様々な形に切り取られた光が目に飛び込んできた。それを遮るでもなく黙々と歩を進める。
 向こうから何が来る。彼は久しぶりに歩を止めた。木々の影から何か大きな者が近づいてくる。静かにそれを待った。警戒するでもなく何かの予感で静かにそれを待つ。草葉の陰から現れたのは、彼の仲間だった。彼と同様全身苔で覆われ、旺盛な草の髪が微かな風に揺れる。二人は見つめ合った。それは数秒にも数分にも感じられる。やがて二人は徐に互いに向かって歩を近づけると、相対するところまで来て向き合った。お互いの顔を見つめ合う。そうしてほぼ同時に二人は右手を伸ばし、相手の苔むした胸に手を当てた。掌に鼓動を感じる。今では二人は目を瞑って顔を前に傾けていた。互いの鼓動のリズムがシンクロしていることを確かめる。そして、またも同時に互いの手を離し、再び顔を見つめた。一頻り見つめ合った後、挨拶もなしにすれ違い、それぞれの方向へ歩みを始める。頷きも思わせぶりな目配せもなく。
 寒波がやってきた。息が白くなる。彼は黙々と前進する。いつか森は尽き、一面砂っぽい荒野だ。寒風が吹き付け体温を下げた。姿勢は変わらない。黙々と同じ歩調で進んでいく。遥か上空を鷹が飛び、真昼の月が淡く彼を見下ろす。彼の歩が小さな砂煙をあげ、砂が風で飛ばされた。眼球に纏わりつく埃に構わず瞬き一つしない。荒野は地の果てまで続いている。彼は歩みを止めようとしない。自分の胸に語りかけてくる呼び声に応えて前へ進む。
 ふと彼は遠くに点のようなものを認める。仲間だ。二人か三人。北のほうへ向かって去ってゆく。再び歩を止める。ジッと地平線の仲間を眺めた。いつまでもいつまでも見つめている。やがて三つか二つの点は一つになり、霞み、やがて消えた。でも彼はまだその方向を眺めている。見渡す限り荒野が広がっていた。やがて何かを思い定めたように再び東に顔を向け歩き出す。背後が夕焼けているが、彼は振り返らない。後ろに金星が輝きだし、まるでそれを潮にしたように方々で星が輝き出した。いつの間にか彼は宇宙の中心にいる。天の川が天空を横切り、向かう先にはオリオン座が、右方には北斗七星が輝いた。大地は暗がりに沈み、天球のほうが賑やかだ。でも彼は変わることなく暗い大地をしっかりと踏みつけ、空を眺め渡すこともなく東へ進む。満天の星辰は自転をつづけ、進路を幻惑するが、歩みに迷いはない。髪や苔には夜露が降り、ますます体温を奪った。彼は眠らない。決して眠くない訳ではない。それはしつこい鈍痛のように胸の奥で疼く。でもただ疼いているだけだ。横になるほどではない。そのようにして何日も過ごしてきたのだし、これからもそのようにして歩み続けるつもりだ。
 東天が白みだす。やがてまるで誰かの情念のように赤く焼けだす。いつものように朝が明ける。
 朝日に浮かび上がるものがある。赤球の後ろに恐ろしく背の高い風車が回っていた。高くて細長い。それが燃える赤を背景にクルクル回っていた。風車に向かって真っすぐ歩いてゆく。次第に太陽が昇ってきて風車の羽を影にした。微かにヒュンヒュンという音が辺りに響いている。段々この塔の基底に近づいてゆく。それは古いレンガで出来た巨大な樹木のような幹だった。それが遥か上空に向かって伸びている。見上げても光線で羽がよく見えなかった。ただヒュンヒュンという音だけが降って来る。レンガに手を触れた。乾いた日干しレンガだ。掌で撫で側頭をつけて耳を澄ませる。中から駆動音が聞こえてきた。なんのための駆動なのか見当もつかない。とくに考えもしない。ただ耳を澄ませる。顔を離しもう一度レンガを撫でる。一頻り撫でたあと塔を後にした。振り返りもしない。背後からヒュンヒュンという音だけが追いかけてきた。
 荒野を細い紐状のものがぬたくって近づいてくる。それは長い長いヘビだ。足元まで来ると思ったより太いものだった。ヘビは彼の脚に絡みついてくる。右脚に巻きつきそのまま胴体に這いあがって来た。その太く長いヘビは彼の身体をグルグル巻きにする。歩が止まった。掌でそのヌルヌルした鱗を撫でる。ヘビは全身で彼の身体を撫でまわした。彼の掌もそれに応える。一頻りの交歓の後、ヘビは何かを達観しように彼の身体から離れていった。頭から地上に降り、そのまま背後へ去って行く。身体に残ったヘビの跡を確かめた。苔にヘビが這った跡が残っている。全身を一通り眺め渡すと、また前へ歩み出す。背後からヒュンヒュンという音がまだ聞こえていた。
 胸の疼きが僅かに大きくなっていることに気が付く。それは気にしなければ気にならない程度だけど、確かに大きくなっている。解っていた。このまま永遠に歩き続けることはできないのだと。残された時間は無限ではないのだと。自身の行きつく先のことをおぼろげながら想像してみる。それはまだ漠として形をなさない。しかし予感があった。考え方に拠ればそれは予感でしかない。でも確かに感じる。彼はそれに呼ばれて歩き始めたのだ。
 彼方に城市が見える。それはまるで蜃気楼のように揺らめいていた。城門から車馬の隊列が行き来している。彼は真っすぐ西門に向かって吸い込まれていった。
 城市は門から始まる市が街路の両側を埋め尽くしている。雑踏で賑わい、人々の叫声が飛び交う。行き交う人に彼に目を留める者はいない。彼らはダイダラボッチなら見慣れていた。彼らとダイダラボッチが棲む世界が違うことも知っている。ときどきダイダラボッチの後を着いていく子どもたちがいるが、すぐ飽きてどこかへ行ってしまった。道路の中央を歩く彼を後ろから馬車の御者が罵声を浴びせるが、車道の端に寄ってそれをやり過ごす。やがて町の中心の広場にやってきた。広場の真ん中には泉が湧き立ち、泉の中ほどには翼が生えた女神像がそびえている。像を見上げ、泉の水を手で掬って喉を潤す。泉の囲いのレンガに腰掛けた。
 辺りは平日の公園のいつもの風景が展開している。子どもを遊ばせて歓談している母親。鳥に餌をやっている老人。ベンチでうつらうつらしている老婦人。一人でベンチを占領して熟睡するホームレス。
 一人の少女が近づいてきた。「あー、あー」と発声して、小さな花を差し出す。言葉を身に着けるには齢が足りないのか、それとも聾なのか、ひたすら「あー、あー」を繰り返し青い花を差し出す。少女から花を受け取った。少女は彼の苔だらけの膝に恐る恐る触る。感触を確かめ一頻り撫でた後、彼の膝に頭を載せた。「あー、あー」……。
「あら、あら、ちーちゃん、ダイダラボッチさんにご迷惑でしょ?」。母親だろうか、慌てて近づいてきた女性が少女を抱き上げる。少女はなおも「あー、あー」を繰り返す。婦人はそそくさとその場から去っていった。彼の手に小さな青い花が残される。
 太陽が南中した。公園の人々は弁当を広げたり、帰路についたり、昼休みの勤め人の男女が繰り出してきたりと動きを見せる。ダイダラボッチはスッと立ち上がって、東門へ向かって歩き出した。気を留める者はいない。聾の少女の姿もいつの間にか見当たらなくなっていた。
 城市の東門への通りは、概ね西門の通りと同じような光景が展開しているが、市場は昼休みの弛緩を貪っている。商いは小休止といったところだ。幾分鎮まった通りをゆっくりと歩く。そのとき何かが彼の腰に当たった。生卵だった。割れた白身と黄身が腰を汚す。市場の人々はそんな彼の変化に目も留めない。彼自身も何もなかったように前へ進んだ。右手には聾の少女がくれた花を摘まんでいる。
 東門から再び荒野に足を踏み入れる。
 今日は日和がよい。インディアン・サマーだ。胸の疼きが遠のく。このまま小春日和がつづいてくれればいいと思った。でも彼は知っている。こんなことがつづく筈がないのだと。これは一時の休養なのだと。
 南へ飛び遅れた小鳥が纏わりつく。胸の鼓動は力強い。いつしか再び茶色かかった草原に足を踏み入れ、心地よい感触を足に伝えた。彼は思う。ああ、このままいつまでも旅が続けられたななら。
 野草の生い茂った平原に、小さな数多な構造物が見えてきた。次第にその構造物に近づいてく。それはこの人気のない平原に唐突に現れた墓地だった。彼はそれらの墓石群の中に入っていく。いずれも古びていて年代を感じさせた。墓碑銘はない。ただ、無表情な花崗岩が等間隔に並んでいた。気のせいか、草原を渡る風も止み、静寂が辺りを被う。彼はこれらの間を縫うようにして歩く。一基だけ花が手向けられた墓を見つけた。歩が弱まる。視線がその墓石に吸い込まれる。その比較的新しい墓石の前にしゃがんだ。そして聾の少女がくれた青い花をその墓に手向ける。立ち上がり、また前へ歩き出した。墓石群が尽き、それらは背後へと過ぎ去る。彼は思う。
 あれはダイダラボッチたちの墓。彼と同じように東の空に呼ばれて歩き始め、力尽きた仲間たち。背後から百の目が彼を窺っていた。彼らが彼に語りかけている。でも彼は振り返らない。しつこく残る胸の疼きに語りかけるように彼らに語り返す。言葉にならない言葉で。形をなさない思いで。
 唐突な砂嵐が彼を包む。何の前触れもなく先ほどの小春日和が嘘のように。いつの間にか草原は尽き、丘陵を成さない砂漠に踏み入れていた。千の砂粒が彼を容赦なく苛む。姿勢も心なしか前のめりになった。嵐はいつまで経っても止む気配がない。まるでこれまでもずっと嵐の中を歩いてきたのだし、これからも(彼が倒れた後も)永遠に嵐が続いているような気がしてくる。
 ダイダラボッチたちの人生は間断なく吹き荒れる砂嵐だ。みなそこからやって来て、そこで倒れた。たまさかの晴れ間でこの世の業をなし、小さな痕跡をこの地に残す。あとはひたすら砂嵐が吹き荒れている。そこでは嵐を避けるような構造物を造っている暇などなかった。その間、千の万の砂が彼らの生を叩き、ひたすらそれに耐えた。
 嵐が始まったときと同じような唐突さでそれは止み、足の速い雲が西に去っていく。その合間から青空が覗いた。砂の痛覚の記憶を胸に、歩を刻む。胸の疼きの勢力が増していた。急がなくては。でも何処へ向かって急がなくてはならないのか判らない。とにかく何かが呼んでいた。それはそこにたどり着かなければ判然としない。芯に堪えることだけどとにかくそうなのだ。
 小さな丘陵に入っていく。高木灌木が生い茂り、谷は意外に深く、旺盛な野草の合間にケモノみちが続いていた。草をかき分け前に進む。鼓動が高鳴り、疼きが訴えかけてくる。丘陵の頂あたりの少し拓けた場所に出る。胸の中で聾の少女の「あー、あー」という声が響いた。そしてそれはいつしか彼自身の心の声になっている。
 あー、あー。
 そこにしゃがみ込み、身を横たえ、頬を地につけた。ほんの数歩先には少女に貰ったような青い野草の花が咲いている。頬の感触を味わう。鼓動が次第に鎮まっていくのが判った。それと反比例するように疼きがジンジン増す。目を閉じ耳を澄ます。あー、あー、ここが私が求めていた場所、あー、あー、ここが私を呼んでいた場所。疼きは白い眠りとなって彼を包んだ。